彼岸から見た景色

思ったことを適当に描いてみるエッセイ

例えば自分が世界一の幸せ者だったとして

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息子が2歳になって意思疎通ができるようになってから、私の親バカが加速している。

最近では仕事が終わって帰ってきて玄関のドアを開けると、息子がドタドタと走ってきて私を見つけるなりにんまりと笑顔を見せるし、私がボーっとテレビを見ていると、後ろから顔を覗き込んできてニヤニヤしてきたりと、とにかく息子が可愛いのだ。

Twitterでバズっているような尊い系のマンガの内容よりも、ウチの息子が愛くるしくてたまらない。

 

2歳になるとイヤイヤ期で憎たらしくなるのを覚悟していたが、一時期自己主張が激しかったのを除けば、ショッピングモールで床に寝そべって駄々をこねるみたいな、そういったよく聞くようなシチュエーションとは遭遇していない。

大変なのはこれからなのだろうか。まぁいずれにせよどうにでもなるとは思っているのだが。

 

そんなわけで近年は幸せの真っただ中にいたわけだが、先日仕事のあることで揉めてから、少し気持ちが萎えてしまった。

別に仕事のミスをしたわけじゃないので落ち込んではいないのだが、理不尽なクレーマーのような輩と正面から対応せざるを得なくなったので、少し疲れてしまったのだ。

それに加えて近頃はピアノの練習や一日一局の将棋、読書や勉強などで睡眠時間が6時間を切ることも多かったので、頭が疲れて余計な事を考えてしまうことが多かった。

これを書いている今現在はそこそこ持ち直した感じはあるが、気づけば哲学的な事を考えてしまうようになっているので、やはり疲れているんだと思う。

こういう時はブログや日記を書いて整理するのが一番だ。

 

 

というわけで今回のテーマは「例えば自分が世界一の幸せ者だったとして」だ。

 

私は今まで本当の幸せを手に入れるためには、誠実で正直者でなければならないと思っていた。

これはわたしが信仰している「最後に笑うのは正直なやつだけだ」というエルレガーデンの『金星』という曲の歌詞によるもので、そしてこの考え方は恐らく正しかったのだと思う。

私は身の回りの誰よりも、日々の悩みが少なく家庭環境が良好で、給料は安いが生活していくのにさほど不自由はないし、仕事上の対人関係もある程度の信頼を得て過ごせていると自負している。

 

しかし…先日の理不尽なクレームを真正面から受けなければならなくなった時に、私の信仰とこれらの幸福にケチがついてしまった。

「例えば自分が世界一の幸せ者だったとして、それがどうした」と問われた気がしたのだ。

他人は自分を写す鏡だというように、確かに私には誠実で優しい人間が集まるようになっていたが、いくら自分が真面目で正直に誠実で謙虚に生きようと、土足で上がり込んでくる輩も結局は出てきてしまうのだと気付かされてしまった。

 

また、日に日に成長していく息子を見て思うのが、結局のところその時々で感じている幸福を、そのまま棺桶に持っていくことはできないということだ。

これからどんどんと息子は大きくなり、新しい子宝にも恵まれたり、また、親しい友人の結婚や出産の喜びを分かち合ったりなど、これからも様々な幸福があることだろう。

しかし、それがどうしたというのだろう、と疑問に思うようになってしまった。

いくら幸福を感じても私も次第に年老いていくし、増えていった幸福の数も、それに匹敵する悲しみの数も、全て過ぎ去るものとして虚しいものへと変わっていく。

私は本当の幸福を得ようとして誠実かつ正直に生きてきたし、また、グチや陰口を言い合ったりするような現実逃避で得る幸福感は悪として、痛みを真っ向から受け止めてきた。

そして、確かに私は純粋な幸福を手にすることができたが、結局それさえも虚しいものなのではないかと気づいてしまったのだ。

 

寺山修司の詩や、amazarashiの歌の詩の中に「さびしい幸福」という言葉がある。

私は「周りと比べて優越感に浸れるほどの幸福」を得ることに成功したが、実際のところそれは孤独でさびしい心の境地だった。

家に帰れば妻や子といった幸福を分かち合える存在は確かにいるが、一歩外に出て、人生を諦めた目をした同僚や知人や幼馴染を見るたびにひどく孤独を感じてしまう。

大人とは、幸福とは、人生とは、これほど寂しく虚しいものなのだろうか。

 

私は今まで、散々自分の人生を諦めた友人達を切り捨ててきた。

マルチ商法に手を染める者、ブラック企業から逃げ出せずに齢25歳にしてハゲてしまった者、良き伴侶に恵まれずに不倫に走る者、顔を合わせればグチを言い始める者など。

こういったダメな人間の兆候が見られる友人とは、私は神経質に率先して縁を切るようにしてきた。そうしてきた結果、私は本当の幸福を手にする代わりに、友人と呼べるものがほとんどいなくなってしまったのである。

隣人を愛せずとも不幸にはならない時代だが、愛する隣人がいないことそのものが不幸と呼べるのかもしれない。

 

というわけで私には友人が必要だと感じた次第である。

本当の幸福も、現実逃避して得る幸福感も、結局誰かに土足で踏みにじられるのであれば、正しいも間違いも善も悪もない。

私が人生をかけて掴んだもの、あるいはこれから掴むもの全てが、ミサイルが着弾すればそれで終わってしまう程度の小さいものなのだから。

私は散々自分が切り捨ててきた者達こそ守るべきだったのかもしれない。

本当の幸福のためには他者をいとわなかった自分の無頓着さを省みる必要がありそうだ。

 

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